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picture たまに読書

HN harborが撮った写真や絵をアップしていきたいと思います。たまに読書とか、たわいもない話から、真面目な話など。お笑いなんかも・・・

『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』の感想

『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』村上春樹著

 すでに機を逸した感がありましたが、一昨日、村上春樹氏の最新刊を入手できました。さっそく読み進めてみました。遅い、あまりに遅い、こんなことが起こっていいのか・・・私は情けなく思いました。遅いと形容しましたが、小説が云々ということではなく、私の読書力があまりに遅いので、イラットしたのです。小説は流石、村上春樹氏だと思いましたが、私の読書能力のあまりの低下に驚きを禁じえませんでした。決して老眼の責でもなかったのです。遠近両用メガネを買いましたが、三島由紀夫著『盗賊』を読んでいないのがその証拠です。

 大学二年生の七月から、翌年の一月にかけて、多崎つくるはほとんど死ぬことだけを考えていきてきた。

で物語は始まります。

 私にも同じ経験があるのです。大学一年の4月から大学一年生の夏休みが終わるまで、死ぬことに囚われていました。
 アパートに遊びに来た高校時代の友人が私の部屋に散乱している自殺に関する本に驚いてはいましたが・・・
 それを救ったのは、一冊の男性雑誌の読者の人生相談にのっていた話でした。解答者は「本を百冊読んでから
死ね」とにべもなく解答していました。そうか、百冊かー今まで『走れメロス』しか読んだことはなかったぞ

 その年、筑摩書房から文庫版の『太宰治集』が刊行されていました。ジャンジャン、読み進め、『トカトントン』で震撼しました。それからは狂ったように本を読みました。救済としての文学。一日三冊のノルマ。
 大学生活は無味乾燥としたものだったけど、高校の仲間達も、ほとんどが東京の大学に入学をしていたので
よく、誘ってくれました。あの時期、高校の頃の仲間がいなかったら・・・薄ら寒さを感じます。


 が、この小説では男3、女2の同じ高校の仲間がいて、高校生活をなんの問題もなく楽しく過ごし、多崎つくるだけが東京の大学に入り、ほかの仲間は名古屋に残ります。それが原因ではないのですが、ある日、仲間から
もう顔を観たくないし、合いたくもない・・・と仲間から一方的に排除されてしまうのです。それで冒頭部分がよみがえってくるのです。ネタばれになってしまうので、なぜ、多崎つくるだけが、色彩を持たないのか、それは秘密にしておきましょう。

 すごいなー村上春樹氏。今回は楽しみに待つということはありませんでした。1Q84が怖かったから。『色彩を持たない、多崎つくると、彼の巡礼の年』正直、私は期待していませんでした。色彩を持たない多崎つくる・・・もう昔の事件になるのかもしれませんが、犯行声明文の、透明な存在としての僕。その透明な存在としての僕、みたいな離人症ぽっい男の子の物語かなーと邪推してしまいました。が、違った。一筋縄ではいかないのが先生なのです。

 是非、お薦めします。読書能力全盛期の私だったら、日曜日の昼下がりから読んで夕方になる前に読了していたでしょうけど・・・まー急行には急行の、鈍行には鈍行の良さもあるでしょう。
  1. 2013/06/21(金) 21:50:46|
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土の中の彼女の小さな犬

『土の中の彼女の小さな犬』村上春樹著
 

 村上春樹先生の初期の短編集を集めた『中国行きのスロウ・ボート』に収められている短編小説です。
 映像化されており、原作は『土の中の彼女の小さな犬』ですが、『森の向う側』として公開されました。
 二十数年前の事です。ちょうど私が大学生になった年です。文芸部に入ろうと、大学の合格発表を見た日から決意していた私は、当然、文芸部に入部しました。当時、文芸部員なら、村上春樹作品を読んでいるのが当たり前という空気がありました。
 私が大学に入学する前年には『ノルウェイの森』が上梓されており、大学一年生の時には『ダンス・ダンス・ダンス』が発表されているという時代でした。当然、私も村上春樹氏の作品を読むようになりました。『土の中の彼女の小さな犬』が映画化されており、レンタル・ビデオ店で借りて鑑賞しました。凄くスタイリッシュでおしゃれで上品な映画という感想でした。私が観た数ある文芸作品を映画化したもので原作を超えたのは『ベニスにす』、(ビョルン・アンデレセン 美しかったー!)『沙耶のいる透視図』(高木沙耶 これも美しかった)・『エーゲ海に捧ぐ』(イタリヤとギリシャが美しかった。いつかギリシャを訪れたいとギリシャ語を独学で学んでいます。)そういうわけで映像化されたものが原作を凌駕したのは私の中で三作品しかありませんでした。
 私だけでなく、原作や漫画本で読者は勝手にキャラクターの声質まで想像してしまうのでしょう。今回ご紹介させていただきます『土の中の彼女の小さな犬』を『森の中の向う側』より先に読みました。しかし、この映画が良かった。原作か?映画か?独断を申せば、映画の方が原作を凌駕しました。
 撮影のロケ地のホテルは八丈島ロイヤルホテルです。行きたい行きたいと思いつつも、いつか日が合えば・・・と思っていましたが、昨日『森の向う側』をもう一度、観て、インターネットで調べたら、八丈島ロイヤルホテルは、もう廃墟になっていることをしりました。
 本当に見事に小説にあったホテルを、よくぞ見つけたものだなーと小説・映画を再び観て思いました。


 ストリーは、リゾート・ホテルに宿泊するも、数日間、雨に降り込められ、人気のない食堂、図書館での大人の男と女が交流?をします。心理ゲーム?彼女の経歴とか、職業とかを、男が当てていく戯れです。しかしそのゲームで男は彼女の閉ざしていて忘れかけた心理的外傷の琴線に(悪意ではないが)触れてしまうのです。とにかく映像が美しい。主人公を きたやまおさむさんが演じ、ヒロインを一色彩子さんがつとめています。北山修氏は、精神科医であり、ミュージシャンであり、作詞家であり・・・ザ・フォーク・クルセダーズを私はギリギリ知っているだけですが、マルチな人なんだなーと改めて思いました。一色彩子さんも美しいです。声も凄くよい。原作は、それほど美人といえなくないけれど・・・とされています。が彼女は美しかった。
 話は変わりますが、新潮社から、『象の消滅』と『めくらやなぎと眠る女』というニューヨーク発の短編コレクションとして村上春樹氏の短編作品をアメリカで英語に翻訳され、掲載されたセレクションとして、日本でもオリジナルテキスト(村上春樹氏の短編小説を英訳されたものを日本訳したものではなく、一部例外的に翻訳したことに触れていますが・・
オリジナルテキストで(オリジナルというと御幣は出ますことは百も承知です)原作の村上春樹氏の短編集を二冊を入手しました。そこでオヤと思いました。
 『中国行きのスロウ・ボート』という短編集の中の作品はほとんど、『象の消滅』に掲載されていますが(掲載されなかったのは、今日、ご紹介しました『土の中の彼女の小さな犬』と『シドニーのグリーン・ストリート』だけが抜け落ちています。
 宮脇俊文著『村上春樹ワンダーランド』で、僕が選んだ「村上春樹・短編ベスト10」で『土の中の彼女の小さな犬』を4位に挙げられております。だから、なんなんだと言われそうですが、(色々な権利関係があったのかもしれませんが)『土の中の彼女の小さな犬を』アメリカの村上春樹短編集にセレクトしてほしかったという個人的なレベルで、一言申し上げたかったのです。

 かつて田中美代子氏は三島由紀夫氏の短編を称賛し、三島氏を短編のデーモンと評しました。村上春樹氏の長編ももの凄いので短編は月前の星かもしれませんが、私は村上春樹氏も短編のデーモンだと思います。
  1. 2013/04/07(日) 08:52:28|
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『金閣寺』三島由紀夫著


 ご存知、三島由紀夫先生の代表作『金閣寺』です。絵もおかげさまでサラサラ進み、8割がた出来ました。それでというのではないのですが、今日、金閣寺を半分まで読みました。絵ばっかりやっていると、文学のほうも気になり・・・
 読んでしまったのです。『金閣寺』
 『FOR BEGINNERS 三島由紀夫』現代書館 に金閣寺に触れています。金閣寺=エロスと説明されていました。私も、ずっと金閣寺=エロス、または金閣寺=美だと思っていたのです。でも、今日、金閣寺=女性達としたら(もちろん試論としてですが・・・)三島由紀夫論が書けるいう気がしました。私的な発表レベルですけど・・・
 先生は少年期にものすごく女性に恋焦がれ、憧れていた存在。三島先生の前に立ちはだかり、人生を虚無にしてしまう女性達。或いは女性達の性交渉に、ものすごい思い入れや、憧れがあったのでしょう。思春期の頃、女性に憧れ、恋焦がれ、(過去の私のブログの『仮面の告白』をもし宜しければ参照してください)でも青年期になっても、内向的性格ゆへ、なかなか女性とかかわりがとれない。。あるとき、自分の思うようにいかない、女性達に、怒り心頭に発したのでしょう。女嫌いに変身。『禁色』などは、そのもっともたる作品だと思います。

 最近、時間がないので、いつか試論として三島由紀夫先生の文学を論じてみたいと思っています。もう、眠くなりました。それでは、おやすみなさい。
  1. 2013/02/16(土) 23:58:43|
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『仮面の告白』三島由紀夫著

『仮面の告白』 三島由紀夫著

 永いあいだ、私は自分が生まれたときの光景を見たことがあると言い張っていた。
 
 三島由紀夫著 『仮面の告白』の書き出しである。超有名な書き出しである。

 私がかつて読んだ本(小説家になるにはどうしたらよいかを書いた本)の著者がこの部分に触れていた。著者・題名は書かない。

 これもあまりに有名な一行。自分が生まれてきたときの光景を見たことがあるという大ボラから始まるわけですが、(中略)
 『仮面の告白』の冒頭は、いきなり意外な事実を語って、読者の興味を一気に掴んでしまう典型ですね。


自分が生まれた時の光景を見たことがあると言い張って(略)この本の著者は、小説家になるには、どのような書き方をしたら良いかという視点で講義をしているのであって,,この著者の『仮面の告白』を批評しようとしてら別角度から論じるのだと思うが・・・あえて言葉通りに受けてみた。
 
私が思うに、仮面の下に素顔がかくされているのではなくて、(一般社会では誰もが仮面をつけている)大ボラを書き出しに持ってこなければ、嘘つきの三島氏の嘘の履歴が本当だと受け取ってもらえないのじゃないか?という不安が三島氏にはあったのではないかと思う。この小説には華美で絢爛たる文体の中に、極めて巧緻な権謀術数が張り巡らされているのである。
 パズル・ゲームによくあるのだが、「嘘つき村から来た。」という嘘をつく村人が厄介で頭を悩まされる。本当の嘘つきは「自分は正直村から来た。」と嘘をつくだろう。その一方で正直村の正直者は「正直村から来た。」と本当のことを言う。ここで裏と表の正直者が誕生する。
 
例の「演技」が私の組織の一部と化してしまった。それはもはや演技ではなかった。自分を正常な人間だと装う
ことの意識が、私の中にある本来の正常さをも侵蝕して、それが装われた正常さに他ならないと、一々言いきかせねばすまぬようになった 裏からいえば、私はおよそ贋物をしか信じない人間になりつつあった。そうすれば園子への心の接近を、頭から贋物だと考えたがるこの感情は、実はそれを真実の愛だと考えたい欲求が、仮面をかぶって現れたものかもしれなかった。
 
ここは複雑な胸のうちを開襟し、自分は嘘つき村からきた嘘つきだという告白をしているのだと思う。
 前後関係は違うが、『仮面の告白』の中で、『お前は人間でないのだ。お前は人交じりのならない身だ。お前は人間ならぬ何か奇妙に悲しい生き物だ』と吐露している。
 ここだけは主人公の慟哭として素直に受けて良いと私は思う。
 
生まれたときの光景を見た・・・から始まる嘘の溢れる自伝的小説は、ほころびが出そうで出ず、修正され、さらに増殖し、とうとう嘘は一つの作品として完遂してしまった。それどころか、私の首根っこを掴んでの首投げ。私は未だに参りました。と思うのである。三島文学がマジックだと知りながらである。マジックの種も大方予想がつくのに・・・である。三島文学というと『ナルシズム』、『ナルシスト』という言葉がついてまわる。でも、私は三島由紀夫氏は逆にナルシストではなかったのではないだろうか?それどころか、成人後も社会的大成功・文化人としての高い名誉はありながらも、ずっと何かの劣等感、疎外感、自己肯定感の低さ、醜形恐怖、外見上の悩み)をかかえこんでいたのではないだろうか?と私は思う。
 しかし、氏の『ナルシズム』論で、以下 (引用)
 
自分の写真を写真を見るのをきらい、鏡を見るのをきらい、鏡を見るのをきらいな男たちには、深いニューロテック(神経症)な劣等感を持った人間が多く、又その多くは、別の知的優越感で保障されている。そしてこれらの優越感へのどんな些細な批評にも、ヒステリックな反応を呈する場合が多い。鏡を嫌う男をバンカラで豪傑肌の男と勘違いすると、とんでもないまちがいに陥る。彼らは、ただ、鏡をおそれているのである。
 

肉体改造前の、三島氏の自己の心象を現しているのではないかと邪推してしまいたくなる。
 三島氏は肉体を鍛え上げ、マッチョな肉体を手に入れた。しかし、氏は満たされなかったのではないかと私は思う。三島氏はミケランジェロの彫刻のような男性的な美しさではなく、ヴィーナスのような麗人と称されるような女性的な美しさを本当は所有したかったのではないかとも私は思う。男性的な美しさと女性的な美しさは、美という同じ範疇に括れそうだが、決して同じ次元でモノを比べられないと私は思う。
 三島氏が、どこかのエッセイで書いていたのだが(なんというタイトルだったか忘れてしまった)、三島氏は
 「男性の女装は好意的だが、女性の男装は、受け付けられない。」というようなことを書かれていた記憶があるのだが・・・
 私は、そこでなぜ、女装は良くて、男装はだめなのか、深く考えず、また氏は何故、女性の男装に眉をひそめるのか分析されていなかったので、私はさらりとその箇所を読み流してしまった。
 
『僕は模造人間』島田雅彦著(新潮社)文庫 を読んで、島田氏は三島由紀夫氏の本質を見抜いていると私は思った。
『僕は模造人間』より

(以下引用)背後で人の声がした。振り返って見ると、見覚えのある小柄な女ーいやワンピースを着ている男だ。ーがいた。僕は思わず叫んだ。「三島由紀夫だ」彼は日本刀を去勢されたペニスのように握り締めており、女形の流し目で僕をとらえた。と島田氏は看破していられる。

 ジャンルは違うのだが、『第3の性』 大田典礼著  人間の科学社
(以下 引用)
 クラフト・エビングやネッケは、同性愛は先天的でどうにもならないものとし、シュテーケルは性的早熟説を強調し、異常に早く強い性欲は抑圧されて同性愛にむかうという。シュレンク・ノッチヒや、クレッペリンはもっぱら後天説をたて、フロイトをはじめ精神分析学派は有名な環境説である。
 
市井の私などが意見をしてはいけないのかもしれないが、私は『仮面の告白』の主人公の同性愛は、精神分析学者の意見があてはまると思う。失恋 ほぼ、皆が経験するのであろう。生きていて一度も失恋をしたことがない人を見つけるのはすごく困難だと思う。しかし、『仮面の告白』の主人公は、園子(仮面の告白の途中から登場するヒロイン)との結婚を、主人公が逡巡していると、園子は別の男性と結婚してしまうのである。そして婚姻後も主人公と園子は密会を続ける。いくら嫁ぐ前に交際をしていたという事実があっても(たとえより深く愛しあっていた恋人たちであっても)、別の男性と結婚をした女性が、結婚後も主人公との逢引には応じないと私は思う。著者の創作なのであろう。
 『三島由紀夫の世界』 村松剛著  新潮社
 この本で、三島由紀夫氏と生前に交友のあった村松氏が書いた本で、三島由紀夫(本名 平岡公威)氏の母堂である倭文重さんの愚痴が描かれている。(以下引用)
 
 K子嬢との縁談について母堂の倭文重さんはーあちらにお宅は、はじめ御熱心だったのですよ。戦争中で若い男がいなかったからでしょうね。(中略)
 それで公威も、その気になっておりましたの。ところが戦争がおわって若い人たちが帰ってきますと、公威なんかでは、もの足りなくなったのでございましょうね。あちらは、ささっと結婚しておしまいになったのですよ。

と、こぼれ話が掲載されている。K子嬢とは仮面の告白の主人公と交際していたヒロイン 園子・或いは園子とはK子嬢を指すのだろう。
 現実世界での女性との失恋。三島氏にとっては大きな挫折だったのであろう。異性愛・まさに掴み取る、その瞬間に自己の手からはなれてしまった。掴みとれないのなら、最初からなかったことのほうが幸いだったはずだ。そしてそれは、三島氏の大きなトラウマになったのではないだろうか?
 
 まずは自己愛からはじまり、同性愛に移行し、そして同性愛的な時期から成長し、健全な異性愛に至る。私が精神分析学派の説を援用したのもその責なのである。
 小説というバーチャルな世界で、自らが同性にしか興味をもてないというキャラが立てば、現実世界でおこった女性との失恋を取り消すことが出来る。あちらの世界(小説)では、失恋どころか、主人公が女性を振ったことになっており、おまけに振った女性(園子)は、自分に未練がありそうに・・・と都合よく書ける。
 三島由紀夫氏が創り上げた『仮面の告白』とは、漫画家 浦沢直樹著の『20世紀少年』の、ともだちが創り上げた、ともだちランドのバーチャル・アトラクションと同じで、過去と現在とを、或いは現在から過去とが互換性を持つ世界である。つまり『仮面の告白』という小説は、過去を現在から書き換えようとした小説なのである。つまり『仮面の告白』という小説は、三島氏の三島氏による三島氏のための小説なのである。
  1. 2013/01/19(土) 05:22:16|
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